数値に裏付けられた安全性 - コミュニティ間での共有によるラボ安全性の向上

Ramesh Durvasula , Information Officer for Research, Lilly Research Labs

化学には危険なときもあります。安全に関する些細な事故であっても、世界中の研究室で多くの人が働いている中では、塵も積もれば山となります。 それぞれの組織には、事故防止のための戦略が用意されているでしょう。しかしそこで収集された安全性データは必ずしも日常的に利用しやすい形で保存されているわけではありません。 科学者がある化合物をこれから使おうとしているときに、いちいち過去の安全性報告書を何千も読むのは、とても現実的とは言えません。 

研究室で働いている人なら、安全に関する事故をきっと何度か目にしたことがあるでしょう。 私も、以前勤めていた研究室で、安全対策の在り方を変えるきっかけとなった出来事があったことをよく覚えています。 ある特許に記載されている反応を実行するには、トリフルオロ酢酸と水素化ホウ素ナトリウムを混合し、ナトリウムトリフルオロアセトキシボロヒドリドの懸濁液を作成する必要がありました。 実は、NaBH4の粉末は急速に溶解することを知りませんでした。結果として、制御不能な反応が起き火災が発生したのです。 ペレット化されたNaBH4を使えば急激な反応は起きなかったでしょう。

この事故は部署の安全説明会で報告されましたが、実際には適切に伝わっていなかったようで、4年後に再び同じような事が起こりました。 そこで、他の研究者が身を持って体験しなくても、安全に関する教訓をより良い方法で把握するには、どうするべきだろうかと考えました。 いろいろ考えた末、このような回避可能な事故を防ぐためには、経験的に得られた安全知識を日常的な研究室のワークフローに直接統合する実用的な方法が必要であることが、明らかになりました。 でもそれは、実際はどのようなものなのでしょうか。  

必要な時に必要な安全情報を

このギャップを埋めるためには、化学者に追加の負担をかけることなく、安全情報を収集し、そしてラボのプロセスに追加する方法を考えなければなりませんでした。 そこでは、3つの変数が考慮される必要がありました。共有される情報、それを提供するタイミング、そしてそれを提供する方法です。

そこで、バリューストリームマッピングを用いて化学者のワークフローを分析しました。安全性情報をいつ必要としているのか、そして実際にはその情報はどのように得られているのか、どのように異なっているかを理解するためです。 一般的に化学者の仕事というのは、まず反応を設計し、材料を調達し、そして最後に生成物の合成を行うという流れになっています。 そこで、最も効果的にするためには、安全性情報は合成の直前に提供されるべきだということが明らかになりました。

そして、安全性データシートや組織内に保管されている情報など複数のソースにわたる情報は、Electronic Lab Notebook (ELN)に供給できることに気が付いたのです。 そうすることで、科学者がある化合物を使おうとすると、そこで「注意!」とポップアップが表示され、例えば手袋を二重にする、安全スクリーンを追加するなど、適切なガイダンスを提供することもできるわけです。 さらに、化学者が問題が発生する可能性がある反応を試みている場合は、安全管理部門にメールでそれが通知され、ベストプラクティスのアドバイスや代替案を積極的に検討できるようにすることもできます。 

アイデアをコミュニティ全体に広める

このシステムを導入することで、事故の再発がなくなりました。ELNを使って合成時に安全上の懸念をシームレスに示す - この戦略は成功したのです。 これは素晴らしいニュースでした。

科学者にとっては、そこが実験台であれ、所属部署であれ組織全体であれ、化学ラボでは安全性が最優先事項です。 このシステムを成功裏に導入した後、同じ戦略を科学コミュニティ全体に広げ、すべての化学者が恩恵を受けられるようにしたいと考えました。 ただ、このシステムを可能な限り効果的にするには、より多くの安全性情報が必要でした。 そこで、あらゆる製薬会社が安全性データを共有できるようなシステムを構築できる組織を探したのです。 つまり、前競争的なクラウドソーシングの化学安全性情報ツールを作る、という構想です。 

Pistoia Allianceは、ライフサイエンスの研究開発におけるイノベーションを促進するために活動しているグローバルな非営利会員組織です。 2017年にここによって、私が以前構築したシステムをベースに、安全に関する事故の防止に役立てることを目的とした「化学安全性ライブラリー」(CSL)が試験的に開始されました。これは、化学分野全般から寄せられた安全に関する事故情報を収集し、その結果集まったデータベースを地域社会で自由に使ってもらうというものです。 そしてプロトタイプを公開したところ、この種のデータ収集に対するコミュニティの関心が非常に高いことがわかったのです。 ただ、同時に事故情報の提供に消極的な人もいました。 理由はさまざまですが、恥ずかしい、機密保持への懸念、データ入力の煩雑さ、といったものもありました。

しかしニーズは明らかです。より多くの貢献者が参加すれば、それだけ影響力も大きくなります。 Pistoia Allianceは、このリソースを普及させ、そして参加を妨げている制限を解決するために、米国化学会で科学情報ソリューションを専門とする部門であるCASと提携しました。そして昨年10月、新しくPistoia Chemical Safety Libraryの提供が開始されたのです。 この新しいCSLプラットフォームを開発し、そしてホスティングしているCASは、情報管理、技術、そしてセキュリティに関する専門知識をもたらします。そのお陰で、この新生CSLは、確認されていた障害にも対処することができるのです。 データの入力は合理化され簡素化されているほか、データが確実に匿名化されるので安心できます。 また、例えば特定エンタープライズ用ELNなどに統合させ、内部利用したいという組織のために、データベース全体の提供も行っています。 なお、Pistoia Alliance、CAS、および学会や産業界など幅広い化学コミュニティの代表者で構成されるCSL諮問委員会が、コミュニティの入力内容を審査し、ポリシーやシステムの改善について助言しています。 

Chemical Safety Libraryロゴ
 

化学コミュニティーは皆さんの参加を必要としています

この拡張されたリソースの実現には胸が躍ります。 世界中の化学コミュニティ全体から安全性情報を敏速に収集し、発信する技術が初めて実現したのです。 もし我々が真に力を合わせてこのコレクションをクラウドソース化すれば、反応による事故を減らし、世界中の何万人もの化学者にとってラボをより安全にすることができます。

CASがホスティングするこの新しいCSLは、開始以来すでに96か国の8,000人以上のユーザーが利用しています。 次はあなたの番です。 CSLがどのように貴組織の安全性に役立つか、是非CSLを試してみてください。でもそこで止めないでください。 事故や危険な状況を経験したことがあるなら、CSLに入力し、全世界の人がその経験から学べるようにしましょう。

今こそコミュニティの安全を守るために力をお貸しください。 安全性データをCSLで共有する

天然変性タンパク質:COVID-19感染症と創薬の展望

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長年の間、各タンパク質のアミノ酸配列がその三次元構造を決定し、そしてその構造が今度はその機能を決定すると生物学者は考えていました。 ところが、固定された、もしくは整った三次元構造を欠くにもかかわらず、基幹的な生物活動を呈するタンパク質や領域の大きいグループがあります。いわゆる天然変性タンパク質です。

神経変性や糖尿病、心血管疾患、アミロイド症、遺伝性疾患、および癌などの疾患を、より的確に克服する鍵が天然変性タンパク質にあることが判明しました。 ACS Infectious Diseases誌に掲載されたこの査読付き論文では、この新たなトピックの現状を分析し、SARS-CoV2、遺伝性疾患、癌などの治療分野にわたる重要な洞察を明らかにしています。 天然変性タンパク質に関する発見および今後の可能性の詳細を知ることで、将来の治療法の迅速な進歩が可能になります。 こちらでジャーナル全文をお読みください。

RNA治療薬の進歩と展望 - 標的療法の新たな武器

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この10年間で、研究、臨床開発、商用活動において医療へのRNA利用という移行が生じています。 COVID-19に対抗するmRNAワクチンに使う脂質RNAナノ粒子や、いくつかの承認済み医薬品の開発が急速に成功したことで、RNAは医薬品研究の最前線に躍り出ました。 このACS Journal of Medical Chemistry誌の査読付き論文では、CAS コンテンツコレクションを利用して、創薬におけるRNAの多面的な利点を検証します。 また、薬物または標的のいずれかとして、新たな治療方法としての可能性についても検証されています。 RNA研究の現在の状勢と医薬品のトレンドについても学習します。

炭素排出量削減への取り組み - 炭素回収は解決策か

Xiang Yu , Information Scientist/CAS

trees are an important source of carbon capture and storage

炭素回収とネットゼロへの道

地球上のすべての動物や人の生命は植物に依存しており、そしてすべての植物にとって二酸化炭素(CO2)は不可欠です。そんな不可欠な二酸化炭素という気体なのに、大気中に増えすぎれば地球温暖化を引き起こし、そして一部の生存を脅かす。これはなんと逆説的な話ではないでしょうか。  

化石燃料の燃焼増加によるCO2排出の問題は、一部の国で産業革命が始まった18世紀に端を発しています。 そして今日、世界の平均気温の上昇は2030年から2052年にかけて1.5oCに達すると科学者たちによって予測されています(図1)。 そしてCO2排出量は、工業化、都市化、そして世界人口の急激な増加に伴い、さらに悪化しています(図2)。 

世界の人口の変化とそれに伴うCO2排出量の推移を示す図
図1. 世界の人口の経年変化とそれに伴う二酸化炭素排出量の推移、および気温上昇の予測データ

 

2015年の気候変動枠組条約第21回締約国会議(COP21)では、2050年までにRace to Zeroという野心的な目標が採択されました。 30年以内に二酸化炭素排出実質ゼロを目指すこの画期的な目標達成には、世界的な工業プロセスと国内のエネルギー慣行の普遍的な変化が必要です。 この目標を達成するためには色々方法があり、良く知られているのは風力発電や太陽光発電などの持続可能な発電方法ですが、あまり知られていないものの同様に重要な方法として、CO2を発生源または大気から直接回収する(炭素回収)というのがあります。 しかし、この技術はコストが高く、貯留容量も限られているため、現在、全世界のCO2排出量の0.1%しか貯留されていません。ただし2050年には19%に増加すると予測されています。 近年、炭素回収技術の研究活動が活発になっていますが、現在までに展開されている商業的応用はわずかです。 気候変動の防止や減少に対する一般の関心や危機感が高まる中、より効率的な炭素回収技術の開発が求められています

1750年~2020年の世界の人口増加(赤)と化石燃料使用による年間CO2排出量(黒)
図2. 1750年~2020年の世界の人口増加と化石燃料使用および工業生産による年間二酸化炭素排出量(Global Carbon Budget 2021)。

 

CAS コンテンツコレクション™における炭素回収

CAS コンテンツコレクション™は、出版公表された科学知識を人間が収集したものとしては世界最大のコレクションで、時間、研究分野、処方、用途、化学組成などの変数を用いて世界の科学出版物を定量分析するのに適しています。 炭素回収に関する最近および現在進行中の研究努力を評価するために、最新の重要なCAS Insightでは最近の動向についての概要を提供しています。 本CAS Insightは、最近の分析(2000年から2021年までに発行された約18,500件の文書)を対象に、炭素回収に関する用語の詳細を調べるための広範囲な分析の結果を要約したものです。また、採用された手法、貯留または変換など、大気中のCO2やその環境への影響に関連した用語と共に使用されたものも含まれています。

主な研究動向と炭素回収方法

文献分析の結果、2008年以降、すべての炭素回収・貯留に関する論文が急激に増加し、そして2010年代半ば以降は減速したものの、最近になって再び増加していることが判明しました。 これは、経済状況や緊急性を反映している可能性がありますが、原油価格との関連もあるようです。 原油価格が低いときは、二酸化炭素の回収が高額に見えるため、分離の取り組みや貯蔵は限定的になる傾向にあります。 この分析では、少量(10%)の二酸化炭素回収関連の特許しか見つからないことから、この技術に対する商業的関心が低いことを示しています。ただし最近は、急激な成長が見られているので、望みはあります。
二酸化炭素を回収するにはさまざまなアプローチがありますが、それらは材料科学、生物学、化学、地質学の4つのカテゴリーに分類されます。 

材料科学アプローチ

煙道ガスの炭素回収システムを含む材料科学の各アプローチを図3と表1にまとめます。 その中で燃焼後回収が最も幅広く採用されており、それは既存の発電所の煙道をレトロフィットするのに適しているためですが、多くのエネルギーを使用するためランニングコストは高くなります。 新たに出現したDirect Air Capture (DAC)は大気から直接CO2を回収する方法で、応用範囲が広いものの大気中のCO2濃度が低いため困難も多く、またコストも高くなります。

材料科学による方法 - CO2回収プロセスの簡易図
図3 材料科学による方法 - 二酸化炭素回収プロセスの簡易図

 

表1. 材料科学による方法 - CO2回収プロセスの比較

プロセス 長所 短所 レトロフィットの難易度
燃焼後 より成熟した技術、最も低コスト CO2濃度が低いと低圧流になり分離効率悪化。CO2/N2分離が困難
燃焼前 CO2濃度が高いと高圧流が可。CO2/H2分離が容易 ガス化・改質プラントのみで利用可能。工業用途はまだない。純酸素は高価 中程度
酸素燃焼 簡便なCO2/H2O分離 純酸素の製造は非常にコストがかかる
ケミカルルーピング 簡便なCO2/H2O分離 技術が初期段階にある。プロセスと設備が複雑

煙道ガスの炭素回収の主な方法を表2にまとめます。 これには、アルカリ溶液による化学吸収、メタノールやセレクソール等の非腐食性溶媒による物理吸収などが含まれます。 さらに、研究が進んでいる多孔質固体吸着剤への吸着や、CO2の分離効率が低いため、まだ広く使用されていない新しい技術、膜ろ過などの方法もあります。

表2. 材料科学による方法 - CO2回収方法の比較

方法 最も適しているプロセス 長所 短所 成熟度
吸収 燃焼後 より成熟した技術、低コスト、簡単な操作 腐食性の溶剤を使用、溶剤の損失が大きい、溶剤の再生に大きなエネルギーが必要 中程度
吸着 燃焼前 連続運転が可能、環境にやさしい CO2選択性が低い、吸着量を最大化するための固体/ガスの接触管理が困難、候補が多すぎる、吸着剤の実際の性能を予測することが困難
燃焼後と燃焼前 単純で柔軟なシステム、環境にやさしい、再生不要 CO2透過率が低い、エネルギー大量消費、膜素材が劣化しやすい 非常に低い

生物学的アプローチ

生物学的アプローチとは、地球上で最も多くCO2を取り込んでいる光合成を利用する方法です。 木材や藻類などさまざまな植物原料をバイオ燃料(バイオマス)に変換して燃焼させることで、カーボンニュートラルで持続可能なプロセスを実現します。 バイオシステムの代替技術として、酵素を利用した技術も期待されています。 例えば、1,5-ビスリン酸カルボキシラーゼ/オキシゲナーゼ (RubisCO)は、非常に豊富に存在し、また多くの研究されている酵素です。 但し自然でのCO2回収は時間がかかるため、そこで現在は工業的に実現可能なプロセスを目指してRubisCOの活性を高めて研究が続けられています。

化学的アプローチ

また、炭素回収の化学手法も複数あります。例えば水素による還元を使う触媒プロセスなどは、数トン単位で広く展開されています。 他にもプロトンと触媒を用いてCO2を還元する電気化学プロセスもよく使われています。 クリーンエネルギーを利用した光化学、光熱、光電気化学プロセスは興味深いところではありますが、今のところ光エネルギーを基板に伝達する効率の面で制約があります。 プラズマを用いたプロセスにも可能性がありますが、大量のエネルギーを必要とするため、炭素回収に使用するには更なる開発が必要です。

地質学的アプローチ

地中での炭素回収は、CO2を大気以外の場所に長期貯蔵する重要なソリューションです。 回収したCO2は圧縮して輸送し、深部の多孔質地層や塩水帯水層に圧入できます。 このプロセスでギガトン単位のCO2を貯蔵することができますが、適切な場所の選定が重要になります。

炭素回収に関するCASの文献分析

CASの文献分析によると、CO2回収に関する論文の発表率は2007年以前は低かったところに、2010年代前半になるとピークに達し、そしてその後は安定していることがわかります(図4)。 前燃焼や酸素燃焼に関する論文はさらに少なく、それは既存設備を改造することの経済的負担のためと考えられますが、しかしつい最近になって増えてきています。 特許出願は2012年に増加し、その後安定推移しており、商業的な関心が継続していることが示されています。

材料科学の方法 - 2001~2021年のCO2回収・分離に関する出版物の傾向
図4. 材料科学の方法 - 2001~2021年のCO2回収・分離に関する出版物の傾向

 

またCASの分析では、さまざまなCO2変換の化学手法に関する論文は、この6年間で(それ以前と比較して)急速に増加していることが示されています(図5)。 中でも、メタン化、プラズマを利用したプロセス、逆水性ガスシフトなどが最も注目されています。

炭素回収の化学手法を示す図
図5. 化学手法 - 2001年から2021年の間にCAS コンテンツコレクションに収録された出版物で「photoreduction」、「electroreduction」、「methanation」、「RWGS」、「photothermal」、そして「plasma」がタイトルや要旨にキーワードとして含まれているものの数、または二酸化炭素の回収、隔離、または利用について論じた文献のキーワードに含まれているものの数

 

論文数は、CO2の生物学的固定化への関心が急速に高まっていることを示していますが、特許出願数は一定しており、実用可能な技術が限られていることを反映しています(図6)。 但し、BECCS(Bio Energy with Carbon Capture and Storage)に関する出版物には強い関心が示されています。

生物学的CO2隔離手法に関する論文発表動向
図6. 生物学的手法 - 2001~2021年の二酸化炭素の生物学的隔離手法に関連する論文の傾向

 

CO2の地中貯留に関する論文は着実に増加し2013年にピークを迎えましたが、その後は減少しています(図7)。 「帯水層」、「塩水」、「塩水」、「ブライン」、「シェール」、「クラスレート」などの検索語は、近年そういった種類の貯留に関心が集まっていることを反映して他よりも多く出版物が出ています。

2001年〜2021年のCO2地中貯留に関連する出版物の数
図7. 地質学的手法 - 2001年~2021年のCO2地中貯留に関連する出版物の数

 

夢を現実にするために

18,500件の文献を分析した結果、CO2隔離に向けた多様な手法への関心が非常に高く、急速に高まっていることがわかりました。 現在、どの手法も主流ではありません。広範囲に利用されているものも少数ですが、ただし分析によれば既存技術の活用や新規技術の開発にはかなりの研究努力はなされています。 特許出願の件数は研究論文より少ないですが、いくつかの技術には商業的な関心が向けられていることがわかります。 より最近の結果は、地球温暖化に対する社会の関心が高まり、その対策が急務であることを反映していると考えられます。 研究活動と経済状況や原油価格との明らかな相関関係は、緊急性が高まれば薄れていく可能性はあります。 CASが判断した出版の動向では、研究と技術展開のペースは、2000年頃には夢物語だったスピードで続く可能性が高いこと、そして今回は地球温暖化が明らかになりつつある現実によって推進されていることを示唆しています。

「アンドラッガブルな」RASタンパク質を標的とするがん治療の新たなトレンド

Zach Baum , Information Scientist, CAS

cover image for blog about RAS oncoprotein inhibitors in treating cancers

RASタンパク質は捉え所のない標的か

ヒトのがんにおいて、RASは最も頻繁に変異する遺伝子ファミリーです。がんの約5分の1には最低ひとつのRAS変異(K-RAS、H-RASおよびN-RAS)があるほどです。 細胞原形質膜に存在するRASタンパク質は、細胞増殖の信号を送る分子のスイッチの役割を果たします。 ところがこのRASタンパク質に変異が生じると、常に活性になってしまい、制御されずに増殖信号を送るようになり、細胞の異常増殖やがんの形成につながります。  

その多産性にも関わらず、このRASタンパク質を標的とした治療薬は明確に欠如しています。 RAS阻害剤はがん治療のために30年以上にわたり研究されてきました。それでもRASタンパク質はそのとらえどころのない抑制可能性のために、「アンドラッガブル」と呼ばれるようになりました。そんな中、遂に最近それに変化が起きました。 今年初め、FDAは肺がん治療薬としてソトラシブ(アムジェン社が開発、市販名はLumakras™)を承認しました。これは、治療薬として承認された最初のRAS阻害剤です。  

ソトラシブの承認はRAS阻害剤での大躍進であり、さらなるRAS阻害剤を発見するための研究開発が激化しています。 このように、かつては捉えどころがなくアンドラッガブルな標的と考えられていたものが、今では有望ながん治療薬として台頭してきています。そこで本稿では、RASタンパク質におけるギャップがどのように縮まってきているのか考察します。

RAS遺伝子で最も多い突然変異、K-RAS

RASタンパク質の遺伝子コードは、4つのアイソフォームとして存在しています。K-RAS4A、K-RAS4B、N-RAS、そしてH-RASです。 変異したRASアイソフォームやコドン、そしてアミノ酸置換は組織やがんの種類によって異なりますが、最も一般的なのはK-RASアイソフォームの変異で、RAS変異がんの約22%で認められています。 K-RASの変異は、その80%がアミノ酸の12番目の位置で発現しており、つまりグリシンからシステイン(G12C、14%)、アスパラギン酸(G12D、36%)そしてバリン(G12V、23%)など他の残基に変異します。(図1)1

大腸がん、膵臓がん、そして肺がんにおけるK-RAS変異の種類を示す図
図 1: 大腸がん、膵臓がん、そして肺がんにおけるK-RAS変異 (コドン12)の種類 


がん治療薬候補としてのRASタンパクの発見

RAS阻害剤は、X線結晶解析を用いて同定することができます。 この方法を使ってRASタンパク質の構造を調べることで、ヒトのがん細胞内に小分子が入れそうな結合ポケットを特定することができます。 こういった構造ベースの医薬品設計というアプローチをとることで、特定のポケットに結合できそうな化学物質を何百種類も発見することができます。 RAS阻害剤の候補は一般的に足場構造になっているため、それをさまざまな官能基でわずかに変更することにより、活性や選択性を強化したり、毒性を弱めたりなど行うことができます。 そのようにしてリード化合物が得られ、それをさらに分析、強化、試験することで、ヒトのがん臨床試験による評価に結びつけていきます。

現在のRAS阻害剤の状況をより深く理解するため、RAS阻害剤関連の特許と論文を、CASコンテンツのコレクション™で調査しました。 その結果、直接的なRAS阻害剤の分野で、治療的または薬理学的な役割を持つ化学物質が26,958件もあることが判りました。 この分野の化学物質と特許の数は年々増加しており、RAS阻害剤発見に対する研究者の関心と取り組みが加速していることを裏付けています(図2)。

RAS阻害剤の年間特許件数を示すグラフ
図2:A: RAS阻害剤に関連する年間の特許件数、および B:  CASコンテンツのコレクションに追加されたRAS阻害剤に関連する年間の化学物質数


最近、アムジェン社のソトラシブがFDAから承認されたことで、RAS阻害剤の発見に向けた研究の取り組みが大きく活性化されました。 ソトラシブは、KRAS G12CのスイッチIIポケットと共有結合した阻害剤です。 ソトラシブは、ヒトのがん治療薬として初めて承認されたKRAS阻害剤であり、KRAS G12C変異のある非小細胞肺がん(NSCLC)の治療に使用されます(図3)。2

現在、さらに4種類のKRAS-G12C阻害剤が臨床試験中で、この中にはソトラシブと同様のコア構造に基づくMRTX849なども含まれています(図4)2。 官能基が異なれば、スイッチIIポケットの主要な要素への結合メカニズムも異なるという結果が出ています。 MRTX849は、2021年6月にKRAS G12C陽性NSCLCに対するFDAのブレークスルー・セラピーの指定を取得しています。

RAS阻害薬、ソトラシブの構造
図 3: ソトラシブの化学構造


 

RAS 阻害薬、MRTX-849の化学構造
図 4: MRTX 849の化学構造


RAS阻害剤の直接の標的を広げるための継続的な試み

RASに結合する分子がより多く発見されるにつれて、低分子標的候補として多くのRASアイソフォームやRASタンパク質の表面が同定されるようになってきています。

変異RASアイソフォームやコドン、そしてアミノ酸置換は組織やがんの種類によって異なるため、がん治療の幅を広げるためには、現在のG12C阻害剤とは異なるアプローチが必要です。 将来的には、G12DやG12Vなど阻害剤の標的となるアミノ酸の種類を増やすことで、治療可能ながんの種類が広がる可能性があります。

RAS阻害剤の門戸が開かれた今、RASのオンコプロテインの構造と低分子標的の結合ポケット配置をより深く理解することで、RAS変異がんに最適な新種のRAS阻害剤を開発そして強化できるようになります。


RAS阻害剤の化学構造に関する詳細な概要や将来の機会など、RAS標的の発見に関してより詳しく知るには、こちらのホワイトペーパーをご覧ください


参考文献

1.    H. Chen et al., Small-molecule inhibitors directly targeting KRAS as anticancer therapeutics. J. Med. Chem. 63 (2020) 11404–14424. doi: 10.1021/acs.jmedchem.0c01312.

2.    L. Goebel et al., KRASG12C inhibitors in clinical trials: a short historical perspective. RSC. Med. Chem. 11 (2020) 760. doi: 10.1039/d0md00096e.

創薬の加速化 - COVID-19ワクチンの画期的進歩と将来への影響

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ワクチンによっては承認まで15年を要する中で、COVID-19ワクチンの開発速度(1年間)は本当に驚くべき成果です。 専門分野も、大陸も、そして企業をもまたぐ協力関係。それは前代未聞でした。しかしその結果、いくつかの新たな技術が登場し、重要な役割を果たしたのです。 mRNAや脂質ナノ粒子、ワクチンの干渉効果など、このワクチン開発ラッシュは今後の展望を大きく変えました。

COVID-19ワクチンの画期的進歩の加速化ホワイトペーパーのカバー画像

 

計算論的アプローチによるCOVID-19治療薬の探索

Julian Ivanov , Senior Data Analyst, CAS

世界保健機構がCOVID-19のパンデミック宣言をして以来、研究者はこの疾患の原因となる新型コロナウイルスSARS-CoV-2について、膨大な量の研究をしてきました。 しかし、多大な努力と投資にもかかわらず、COVID-19の効果的な治療薬はいまだ見出されていないのが現状です。 世界中で複数のワクチン候補が臨床研究段階に進みましたが、仮に安全で効果的なことが証明されても、ワクチンの製造と配布、世界中の人々への接種には何か月もの、何年もの期間が必要となります。 そのため、パンデミックが終息する前に増加が予想される多くの患者でウイルスの影響を軽減できる効果的な抗ウイルス治療薬の特定が、今でも早急に必要とされています。

この緊急のニーズに対応するため、科学者たちは各種の方法で創薬プロセスの迅速化を図っています。その中には、他の適用で承認済みで、COVID-19の治療に効果的かもしれない薬を特定する、コンピューターの手法の使用も含まれます。 この取り組みを支援するため、CASの科学者と技術者のグループは、定量的構造活性相関(QSAR)法を使用し、SARS-CoV-2の優先標的タンパク質を対象に機械学習モデルによりCOVID-19の治療候補薬を特定しようと試みています。 この作業によりLopinavirやTelmisartanなど、現在臨床的に有効性を示している薬がいくつか特定されましたが、これは最近ACS Omegaで公開されています

古い手法と新しい手法

新薬の製品化には膨大な時間とコストが必要となるため、緊急に薬が必要とされる現在、既存の小分子薬のドラッグリパーパシング(既存薬再開発)は魅力的な代替策です。 治療薬をより早く提供できることに加えて、この戦略には従来の創薬プロセスに比べて数多くの利点があります。例えば、開発後期になって重大な副作用が見つかるなどのリスクが低減できます。

ドラッグリパーパシング(既存薬再開発)は新たな概念ではありません。 しかし、現在までの応用は大部分体系的ではなく偶発的なものでした。 ViagraやMinoxidilなど、ドラッグリパーパシング(既存薬再開発)の顕著な成功例では、新しい適用が見つかったのは、患者が予想外の副作用を報告したことが原因です。 最近では、より体系的なドラッグリパーパシング手法が導入されています。これにはシグネチャの一致、分子ドッキング、遺伝的関連解析、経路マッピング、後向き臨床分析などコンピューターを使用した手法が含まれます。 現在望まれているのは、コンピューターの使用により、新しく特定された薬物標的に既存の小分子治療薬を信頼性の高い形で関連付けることです。

ターゲットを絞り込む

コロナウイルスとは、人や多くの種類の動物で軽度から中等度の上気道疾患を引き起こすことで長らく知られているウイルスの大分類です。 動物固有のコロナウイルスが人に感染して伝染するのは稀ですが、現在までに3種類のコロナウイルス(SARS-CoV-1、MERS-CoV、新しい SARS-CoV-2)で感染が確認されています。 3種類とも蝙蝠由来のベータコロナウイルスと考えられます。 これらのウイルスとヒトへの感染方法の類似性から、以前のSARSとMERSに関する研究がSARS-CoV-2の薬剤標的を見つける上で素晴らしい開始点となります。 SARS-CoV-2の全タンパク質のうち、キモトリプシン様プロテーゼ(3CLpro)とRNA依存性RNAポリメラーゼ(RdRp)はQSARモデリングに理想的なタンパク質ターゲットとなります。SARS-CoVとMERS-CoVや、他の既知のコロナウイルスで見つかるタンパク質と共有している大きな類似点がその理由の一つです。

3CLproは、コロナウイルスがポリタンパク質ペプチドを分割して個別機能を持つ非構造タンパク質(NSP)を生成するために必要なプロテアーゼの一種です。 アミノ酸配列とタンパク質の構造を比較したところ、3CLproはSARS-CoV-2とその他のヒトコロナウイルスとで高度に保存されていることがわかりました。 SARS-CoV-1とは 96%の配列が一致していることが特定され、MERS-CoVとは87%、ヒトコロナウイルスとは90%でした。 したがって、以前のコロナウイルス関連研究で見つかった3CLpro抑制物質、および関連する構造活性相関(SAR)データは、SARS-CoV-2 3CLproの新しい抑制物質を見つける機械学習モデルのトレーニングに有用です。 

RdRpは、RNAウイルスが宿主細胞内でウイルス遺伝子を複製する際に使用される主な酵素の一種です。 SARS-CoV-2 RdRpの構造研究と配列分析により、この酵素はSARS-CoV-1 RdRpの構造に非常に類似しており、HCVなど、大部分のウイルスのRdRpに残存する主なアミノ酸残基をいくつか含むことが明らかになりました。 幸運なことに、多様なウイルスのRdRpはRNAウイルスの抑制物質として、特にHCV関連の研究など、広範囲に研究が行われています。 したがって、HCVなどのRNAウイルスの既存のRdRp抑制物質は、SARS-CoV-2 RdRpの抑制について、創薬に貴重な情報を与えてくれる可能性があります。

機械学習で既存の治療薬を優先的に処理

機械学習モデルは、近年創薬を促進するために使用が広がっています。 具体的には、現在の創薬プロセスの最初のステップはQSARであることが多くなっています。 簡単に説明すると、QSARとは、化学物質の非常に複雑な生物学的特性と物理化学的特性を、その分子構造の量的測定値を元に、近似値を求める数学的モデルです。 このような数学的予測モデルは、特定された標的に対して有効な可能性の高い候補薬を優先的に研究するために、化学構造の膨大なデータベースをスクリーニングするために使用されています。 この方法では、化学物質の活性とその構造には直接的関連性があり、類似の構造的特長を有する分子は同じような物理特性や生物学的効果を有することを想定しています。

本研究で、私は同僚との協力を通じて、3CLproおよびRdRpのタンパク質ターゲットの高度なQSAR予測モデルを構築しました。 コンピューター科学者と化学者を含むチームは、モデルのトレーニング対象の分子として、構造生物活性データを持つ1,000種以上の抑制物質を選定しました。 データは最新のSARS-CoV-2生物検体の研究およびSARS-CoV-1、MERS-CoV、CASコンテンツコレクションのその他の関連ウイルスに関する既存の研究から収集しました。 これらのデータに各種の機械学習アルゴリズムを適用して、数10個のQSARモデルを構築しました。その中から、3CLproとRdRpをそれぞれ標的にした最も成果の優れたモデルを1つずつ選定しました。


COVID-19および関連ウイルス感染の治療効果を持つ可能性があるウイルスの3CLproおよびRdRp標的化合物を特定するQSAR機械学習モデルとその応用に関する文献全文を読んで、テストされた全モデルと最も有望な候補薬をご確認ください。


得られた2つのQSARモデルを使用して、1,087種のFDA認可済みの薬CAS COVID-19抗ウイルス薬候補化合物データセットの50,000件近くの物質、2003年以降に発行されたSARS、MERS、COVID-19関連文献でCASにより薬理学的活性が特定/薬剤としての役割がインデックス化された113,000件未満の物質を含む、膨大な候補薬をスクリーニングしました。 物質構造の機能としてプロテアーゼの抑制活性をモデル化することで、コロナウイルスの3CLproとRdRpの有効な抑制剤として予測されている物質の中から、最も有望な候補をいくつか特定しました。 また、私たちのモデルがSARS-CoV-2の3CLproまたはRdRpを抑制すると予測した物質の多くは、より重篤なCOVID-19感染の危険因子であることが明らかになった他の疾患に対する治療活性を有することも既に認められています。 例えば、塩酸ジルチアゼム(Cardizem)など、心疾患にも活性を有することが知られているCOVID-19の抗ウイルス薬候補は、特定の症例では二重の利点をもたらす可能性があります。

これらのモデルは、ROC-AUC(受信者動作特性曲線の下の面積)、感度、特異性、確度が高いことが検証されています(図1)。 この研究が完了した時点で、同モデルで高い活性を有すると予測された分子の一部は既に出版済みの実験的生物検定研究と臨床試験で検証されおり、この予測能力の正しさを更に裏付けています。

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図1. 3CLproおよびRdRpのトレーニング済み二値分類の受信者動作特性曲線(ROC)

次のパンデミックに備える

本研究は現在のCOVID-19の危機で治療効果を有する可能性がある化合物を特定することに注力したものですが、今後もウイルス由来の新たなパンデミックが起こる可能性も無視できません。 従って、将来の爆発的感染に対する準備を今すぐ開始し、抗ウイルス薬研究に十分に投資して、全力を傾け続けることが現在の急務です。 異なる種類のウイルス(コロナウイルス、インフルエンザウイルス、エボラウイルス、レトロウイルスなど)が大流行する可能性があり、それぞれの新薬と新しい適用の人に対する安全性と有効性のテストには多大な時間が必要となるため、広範囲にわたる抗ウイルス薬とワクチンは非常に価値のあるものになります。

ここで説明した機械学習の手順、分子ドッキング、仮想スクリーニングなど、コンピューターを使用した創薬手法の継続的開発は、その中でも特に重要になるでしょう。 コンピューターの処理能力の絶え間ない向上、ドッキングと構造予測のアルゴリズムやタンパク質結晶構造の判断手法の継続的発展などにより、さらなる進歩が促進されます。 また、高スループットスクリーニング、オーミクス技術、既存薬再開発などの利用も、引き続き重要性を増していきます。 これらの新技術を用いた手法は決して人力による実験室での研究を置き換えるものではありません。効率を高め、補完し合うものになるでしょう。 人力によるデータの収集と機械学習モデルを組み合わせた、COVID-19の小分子候補薬を特定する取り組みは、創薬における人力と機会学習のシナジー効果に脚光を当てることになると共に、継続的なCOVID-19などの抗ウイルス薬研究の努力に貢献することになります。

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